かの有名な「安政の大獄」1859年(安政6年)です。当時、徳川慶喜は、御三卿のひとつ一橋家を継いでいましたが、チャカポン井伊直弼(なおすけ)から隠居謹慎を命じられます。いったいその罪と罰は何だったのでしょうか?
日本史の教科書では安政の大獄で死罪になった吉田松陰(しょういん)や橋本左内(さない)が主役ですが、井伊直弼が排除したかった標的は、徳川慶喜親子と慶喜ファンクラブの面々、いわゆる一橋派でした。
安政の大獄の慶喜への刑罰
チャカポン井伊直弼から言われたのは「隠居謹慎」だ。死罪獄門の次に重い刑罰だ。親父は「永蟄居」。親父には「謹慎」がなくて、私には「謹慎」だ。そもそもは親父が原因の事件だろう? しかも、親父はそんなの無視して気ままに振る舞ったらしい。相変わらずだ….
まず徳川慶喜に下された刑罰から。
刑罰は「隠居謹慎」です。家の中でじっとしてて動くなということだから、相当厳しい罰です。
将軍家定の命令として、まず7月5日に登城停止処分、続いて8月27日には隠居謹慎が命じられて、謹慎生活がはじまります。でも、将軍家定は7月6日に亡くなっているような状態です。将軍命令はありえないわけで、完全にチャカポン井伊直弼が決めています。
井伊直弼が水戸藩浪士などに暗殺された「桜田門外の変」は1860年(安政七年)のひな祭り3月3日、今だと4月、春の季節外れの大雪で江戸は一面真っ白でした。暗殺後もその年の9月4日まで謹慎は解かれず、ダラダラと続きます。
なんと蟄居謹慎期間は374日間、一年を超えています。(日付の引き算あってますかね?)
このとき慶喜は20代の前半です。そんな青春真っ盛りに一年以上謹慎ですよ? 信じられますか? そんなに悪いことする人には見えませんが、きっと魔が射したんでしょう……
じゃあ慶喜の罪状は? どんな悪いことをしたの?
刑罰の方はかなり重いことがわかりました。でも肝心のその根拠となる罪状の方は?
慶喜の前に斉昭パパから行きます。
同じ日に罪を犯した斉昭パパは「不時登城」を理由に罰せられます。これは本社に行く日が決まっていたのに、違う日に出社したから「その罪は重い!」ということです。
最初「不時登城」の罪だと聞いたときは「え?それ罪なの?しかも重いの?」と面食らいました。
でも、ルール違反はその通りなので、理由はわかりました。
問題となった事件現場は江戸城、事件の経緯はこうです。思いっきり端折ります。
大老に成り立ての井伊直弼を、斉昭パパと福井越前藩主の松平春嶽(しゅんがく)=当時は慶永(よしなが)がよってたかって問い詰めました。表向きの理由は1858年(安政五年)の日米修好通商条約を天皇の事前の許可なく調印したことへの抗議です。
でも斉昭パパには裏の目的がありました。井伊直弼を糾弾して、息子の慶喜を次の将軍に押し込むぞと考えていました。松平慶永も慶喜ファンクラブ会長です。
そして翌月にこの「無勅許(むちょっきょ)調印」に激怒した天皇から、怒りの戊午(ぼご)の密勅が水戸藩に出ます。
天皇から直接水戸藩に勅を出すなんて、あってはならないことでした。これは天皇の意志ではなく、きっと黒幕がいるに違いない。「そうだ!斉昭一派の陰謀だ!」とチャカポン井伊直弼がワナワナと震えながら怒りまくります。安政の大獄という弾圧劇場がはじまります。さあ、ダースベイダーのマーチをお願いします。
これ以上書くと長くなるので、大事なのは斉昭パパじゃなくて慶喜の方です。
慶喜の罪状がはっきりしません。幕府からの通達は「とにかく慎め」ということで罪状が書いてありません。そこで「身に覚えがないし、何の罪ですか?」と確かめると、「そんなに長くないから、上からの言いつけだし謹慎しといて」という回答だけが返ってきます。ひどいですね。
完全に冤罪、真っ白な無実だよ。せっかく真摯に忠告してあげたのに。オレにアドバイスしたから重い罪だなんて、どんだけ小さいやつなんだ。
慶喜は「不時登城」ではありません。
斉昭パパが井伊直弼に抗議した前日に、慶喜も井伊直弼に初対面して糾弾しますが、なにしろ慶喜のいる一橋邸は江戸城本社内ですし、その日は御三卿の本社出社日でもあり、ルール通りです。しかも事前にチャカポン直弼に「どこで会う?」と断ってから会っています。
冤罪なのにまじめに謹慎した?
あまりに理不尽なこと言うから、あきれて大笑いしたくらいだよ。抗議するのも馬鹿らしくて、腹いせにまじめに謹慎してやった。
いや、ケイキ君、「腹いせに謹慎」って、それ考え方おかしいでしょう? しかも一年以上、日光のない真っ暗な部屋でじっとしていたら、確実にビタミン不足で体調壊して、筋肉も衰えて、メンタルもやられてしまいますよ
慶喜本人は、かなり真面目に謹慎したという記録になっています。
自分の部屋で雨戸まで閉じて、5-6センチの隙間からわずかに陽が入るだけの中でじっと座ったままでいます。暗くしてるので本も読めません。
「長髪にてござあそばさるべし」という「武田鉄矢のモノマネやってろ!」という命令なので、伸びる髪の毛を切ることも剃ることもできません。
人に会うのは厳禁で、家来も国に戻せとのことなので、側近でバディの平岡円四郎も「御役御免差控」という罰で実家に帰ってしまっています。話し相手もいません。
しかも、この時期の最初と最後に、実の子供と斉昭パパの死という家族の不幸が交錯します。
1858年(安政五年)7月16日奥様の美賀子(みかこ)さんが女子を出産しますが、20日には亡くなってしまいます。斉昭パパは1860年(安政七年)桜田門外の変の少し後、8月15日に永蟄居のまま亡くなっています。
井伊直弼も暗殺されていないのに、慶喜の謹慎はまだ解かれていません。お父さんの死には立ち会えなかったとのことですが、お葬式にも行かなかったということでしょうか?
20代前半でこれはダメージが大きいです。私なら、かなりメンタルがずたずたになって、その後も大きな影響があると思います。
まとめの考察
この井伊直弼による弾圧、歴史書でも「将軍後継候補の争いは一橋派の完全敗北」と説明されたりしますが、私は深く入れば入るほど慶喜にとって重要な場面だった、という気がしています。
二つの視点があります。
長期の謹慎が蝕んだ心身への深い傷
一つは、一年以上の蟄居謹慎という陽の光も不十分な、不自由な生活が与えるダメージです。
英明で健康、元気はつらつな若者です。おそらく今の時代に健康診断すれば、血液検査でひっかかって、メンタル的に治療が必要な状態になっていてもおかしくありません。
あとの慶喜の行動を見ると、心配になるぐらい躁状態が激しかったり、鬱に入ったりを思わせる状況が出ているように思います。
関連があるかはもちろんわかりませんが、やがて神経衰弱でアヘンを飲んで治療する事態になります。
もう一つ、自分の後継ぎ問題のせいで多くの人が事件に巻き込まれた、という現実を慶喜はどう受け止めたのでしょうか?
一方で、自分がじっと謹慎してたら、井伊直弼を大雪が消してくれた、という変な成功体験ができてしまいました。
どちらも無意識のうちに、その後の判断や行動に影響を与えているのではないでしょうか?
もしも慶喜が井伊直弼を本気で叩いていたら....
もう一つは歴史の「もしも」です。
どうせ井伊直弼に怒るなら、徹底的に叩いて排除するべきだったのです。斉昭パパがもっと熟練した政治闘争のできる人だったら、この時に井伊直弼を政治的に弱体化、あるいは排除できた可能性はあったでしょう。御三家と御三卿ですから、十分それが可能でした。
もちろん24歳の若者が、大老に本気で政治闘争を挑むなんて無理な相談ですし、慶喜は地位を利用して大老を叩くなんて絶対にしないでしょう。何より、目の前の太ったおじさんがまさかダースベイダーだとは思わないので、無理な相談なのはわかっています。
でも、、、と大の慶喜ファンとしては、うじうじ考えてしまうのです。もう一回、ここに戻れないですかね?
安政の大獄も桜田門外の変もなく、橋本左内が生きていたら、時代は全然違う方向に回っていったはずです。歴史の大きな分岐点ですし、慶喜は「もしも」ができる立場ではあったのです。
安政の大獄とチャカポン井伊直弼については、まだ書きたいことがあります。次は
「なんでそもそも慶喜は井伊直弼に怒ったのか?」
という疑問を書いてみようと思います。
ところでさっきから、そのチャカポンってなによ?
人を気安く、失礼なあだ名で呼ぶんじゃないのよ。ひどいったら….
余談)井伊直弼のチャカポンというキュートなあだ名ですが、これは家でぶらぶらしていて、チャ(お茶)カ(歌)ポン(ツツミ太鼓)に打ち込んで暇してるやつ、という意味です。兄がいたので、まさか自分が井伊家を継ぐなんて思ってもいなかったので、お茶、歌、狂言など芸術面に打ち込み、レベルの高い仕事を残しています。
井伊直弼のもう一つの顔は、美を愛する繊細な心を持った本格的なアーティストです。「一期一会」はチャカポン直弼が書いた茶道本「茶湯一会集(ちゃのゆ いちえしゅう)」の序文で使われました。
「どんだけー♪」というほど意外です。そして人間って、ホント怖いです。
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