大政奉還は慶喜のオリジナルではない
まず、大政奉還は慶喜オリジナルの考えではありません。
歴史書でよく見かけるストーリーは以下のようなものが多いと思います。ちなみにこのストーリーに、私自身はまったく納得していません。
- 坂本龍馬が、同じ土佐藩の後藤象二郎に船中八策として伝えた
- 後藤象二郎がこれを書面化して幕府に奏上した
- 慶喜は、薩長の倒幕計画の出鼻をくじくため渡りに船と決断した
慶喜の前にいきなり坂本龍馬登場ですが、 その坂本龍馬について少しだけ書いておきます。
最近の研究で「船中八策」はフィクションということが、ほぼ確定しています。船中八策は、明治以降に出た龍馬の伝記物語などで、作られていったフィクションであり、司馬遼太郎はじめ歴史小説化たちが再構成した物語です。
ここに来て従来の坂本龍馬像は、大きく修正されています。薩長同盟における龍馬の貢献度も、ほとんど無かったと、言われていますし、日本最初の商社と言われる亀山社中や、日本最初の新婚旅行をしたというお話も否定されています。
だからといって「龍馬なんてすべてがフィクション」と、マウント気味に否定するつもりはありません。調べるに従って、たとえ船中八策がなかったとしても、それは龍馬が大政奉還を知らなかった、建言しなかったということではありません。私は龍馬の貢献は大きかった、と考えています。
むしろ、大政奉還を後押しした人物として、坂本龍馬は書き換えられるべきです。いずれにしろ 1.の船中八策はありませんし、大政奉還は坂本龍馬のアイディアではありません。とても残念ですが、ケイキ君が、坂本龍馬にあったという記録もありません。龍馬は脱藩浪士ですから、普通は会えませんね。
ケイキ君と坂本龍馬って会ってないんですか? 残念だなあ。この二人が会ってたら、歴史も変わってたと思いますよ。
いや、私は知らないんだ。会ってもいないはずだ。ただ、永井が確かそんな男の名を口にしていたかもしれない。今は、面白そうなやつだから、会ってみたいとは思っているよ。
すべての起点は大久保 といっても一翁の方
さて、では大元が船中八策でなければ、慶喜が大政奉還というアイディアを知ったのはいつなのか、というのが今回の本題です。
まず、大政奉還が行われた慶応よりずっと前に起こった主なでき事から押さえておきましょう。大久保一翁(いちおう)という人物が重要です。
- 大久保一翁 1862年(文久二年)11月に大政奉還を前提とした諸侯会議・公議政体論を幕府に提案します。
- 坂本龍馬 1863年(文久三年)謹慎中だった大久保を勝海舟が訪ねます。この時、坂本龍馬が同席し、大久保の大政奉還のアイディアを聞き、「天下之人物」と高く評価します。
- 松平春嶽 政治総裁職のとき、側近の大久保一翁の影響で慶喜に大政奉還を進言します。春嶽はその後、第二次長州征伐のときにも、再度大政奉還を慶喜に進言します
大久保一翁ですが、同じ大久保姓である大久保利通の陰に隠れていますが、かなり重要な人です。明治維新は彼なしには実現していなかった、とさえ評価する声もあるようです。私は秘かにホワイト大久保と呼んで尊敬しています(大久保利通ファンの方すいません)。
大久保一翁(当時の忠寛 ただひろ)はエリート老中阿部正弘の部下でした。阿部正広が黒船への対応について、広く意見を募ったことがありましたが、その投書の中から旗本の勝海舟を発掘したのは、実はホワイト大久保です。その後、勝と一緒に、日本の海防強化に尽力します。
幕末の戊辰戦争でも、やはり勝と一緒に、無血開城の実現に奔走しました。江戸の反乱を抑えるために手を尽くした人です。勝海舟はこの人に足を向けて眠れませんね。
この人とにかく筋を通すホワイトな人という印象です。やっていることは全部正しくて、そこに私心がかけらもありません。
安政の大獄で、チャカポン井伊直弼に立ち向かっています。そのせいで罷免されちゃいます。坂本龍馬と会ったとき、大久保は井伊直弼に罰せられて謹慎していたときでした。
今でいう社会貢献にも熱心に取り組んだ人で、病院や孤児院の設立にも力を注ぎました。明治維新の混乱を最小限にするため、幕府が貧困対策で蓄えた資金を、新政府側にすべて譲渡しています。
ほぼ歴史の表舞台には出てきませんが、人気がないのはホワイトすぎるからですかね?
さて、大政奉還はこのホワイト大久保がすべての起点なんですね。大政奉還が彼独自の案だとはいいません。独自案かどうかというのは、議論してもあまり意味がありませんよね。
ホワイト大久保から土佐藩坂本龍馬に一本の線が引かれて、のちの慶喜の大政奉還につながっていくわけです。坂本龍馬が早い時期に大政奉還の案に感服していた、というのは押さえておくべきポイントになります。
大久保一翁はなぜ大政奉還を言い出したのか?
ではなぜ、ホワイト大久保が大政奉還を進言したのでしょうか?
もちろん、この本心はわかりません。わからないので、妄想が入り込めますね。
まずは、前提として天皇と幕府の権威と権力の分離構造があります。ミカドが一番えらい権威なのですが、実際の政治権力は全部幕府が持っています。幕府はミカドから「大政を委任されている」という暗黙の了解がある、というのが、その当時の知識人の共通認識でした。
ところが黒船がやって来て、この委任がほころびはじめます。
幕府が開国方針を説明しても、ミカドは「開国ダメ絶対!」と大きなバツ印を出します。
ミカドから外交方針を反対されたら、もう委任状態ではありません。ここは筋を通して、いったん政権を返上して、新しい政治体制を建てるべきだ、というのがホワイト大久保の主張です。
ホワイト大久保らしい生真面目な筋論です。ポジショントークとか、政治的な思惑や陰謀なんて、まったくない人だと思います。
ホワイト大久保は、旗本の出です。旗本の最高位、側用人まで出世していますので、相当優秀な人でした。ただ、それでも側用人です。この地位で大政奉還を進言するなど、本来はありえません。ていうか、過激すぎるでしょう。案の定、「お前やりすぎだぞ」と、左遷されてしまいます。
大久保について語り始めると、止まらなくなりそうなので、このくらいにしますが、心がきれいで視野の広い人として、幕府、薩摩、朝廷含め多くの人から尊敬された人です。
慶喜は大政奉還を反故にしていた
さて、次にこれが慶喜にどうつながるかです。ようやくここで慶喜ですね、すいません。
慶喜は、もちろんホワイト大久保に会っていたとは思いますが、側用人が直接慶喜と話せたのか、その辺はわかりません。記録上、大政奉還は松平春嶽から慶喜に提案しています。
この時の松平春嶽は政治総裁職、つまり大老でした。大久保一翁はその側近だったようです。
大久保発、春嶽経由、慶喜行きという列車が編成されたわけです。
春嶽は二回大政奉還を進言していますが、この二回とも慶喜は反故にしています。
え、ケイキ君ってミスター大政奉還だと思ってたのに、いきなり反故にしちゃうんですね
ミスター大政奉還って言われても、私はこのとき将軍後見職だよ。将軍に幕府やめて、とか言えないだろ?
私はこれを知った時、「え?慶喜、却下しちゃうの!?」と飛び上がりました。
後世の私たちから見たら、慶喜はミスター大政奉還ですが、それは結末を知っている視点です。
歴史を見るとき、気をつけないといけませんね。ひとつひとつの出来事を、当時のその人の立場を理解して見ていかないといけません。
似た話として、ミスター倒幕の岩倉具視も、倒幕直前まで、実は全然違う考えを持っていた(慶喜を政権に迎えるつもりだった)ふしがあります。このネタは後ほど。
大政奉還の却下一回目
二回のうち最初は、慶喜が将軍後見職になった時期、1862年から1863年(文久三年)です。
ホワイト大久保が幕府に対して大政奉還を提案してすぐあとです。
同時期、坂本龍馬と松平春嶽が会っていたという記録もあります。春嶽が大政奉還を言い出した時期と符合しますし、春嶽の側近横井小楠(こぐす)も大政奉還を主張していますから、案外三人が大政奉還について話したのかもしれません。
龍馬に大政奉還の種を撒いたのは大久保一翁ですから、起点は変わりませんが、この時期の春嶽は、大久保、横井、龍馬と大政奉還を主張する人たちに囲まれていますね。
慶喜は安政の大獄の謹慎から解放されて、(不本意ながら)将軍後見職になっています。
慶喜は「将軍後見職という立場からは、安易に大政奉還などと言うべきではない」と、春嶽の案を退けます。
私の印象ですが、慶喜は自分のお役目をしっかり意識して発言します。そういうとき彼は「本心」を、いったん隅に追いやります。
まあ、「本心」なんて言い方が、すでに現代の勝手な言い分なんですけどね。
もう少し深く掘っていくと、慶喜が単純な立場論ではなかったということが見えてきます。慶喜の考えを、僕なりに代弁すると、以下になります。
「安易に大政奉還などしてはいけない。その前に、ミカドの意向をきちんと確認したい。ミカドと信頼関係を回復する努力をして、もう一度、幕府への委任をしっかり確認しよう」
これは実際の行動から私が勝手に解釈しています。文久のこの時期、慶喜は京都に入り、朝廷から委任確認の勅許を得ようと奮闘しています。
これ正論ですよね。大政奉還の前に、やるべきことをやりつくしたのか、ということだと思います。
ただ現実は厳しくて、朝廷にのらりくらりとされてしまいます。慶喜は何度も辞表を提出するなど、朝廷との駆け引きに疲れ果てます。案外、大久保一翁の方が、よく見えていたのかもしれません。
一方で、慶喜はミカドから強い信頼を勝ちとります。孝明天皇はケイキ君大好きになります。慶喜が辞表を出しても出しても、「やめさせないから」と受け取りません。この辺のやり取りを通じて、慶喜は「幕府を守る立場」から、「ミカドの側近」に、徐々に変わっていくことになります。
大政奉還の却下二回目
二回目は第二次長州征伐の時期です。1866年(慶応二年)の秋です。
慶喜はいったん、長州征伐の陣頭指揮を取ろうとしますが、幕府軍が長州相手に負けはじめます。その戦況を聞いて、「いや、これ無理ぽ」となって、この戦いをドタキャンします。
孝明天皇含め周りはあきれますが、慶喜はここで松平春嶽に助けを求めます。
ちなみに春嶽はじめ福井藩は、この第二次長州征伐に一貫して反対していました。
大久保一翁も勘定奉行として幕府に復帰しています。復帰してすぐに、長州征伐に反対しています。間違いなく、春嶽と大政奉還の線で連携があっただろうと思います。ただ、大久保一翁は、長州征伐に反対したため、勘定奉行をすぐに辞めさせられてしまいます。
春嶽は「天下の大政をすべて朝廷に返上すべき」と、慶喜に再度大政奉還をするよう進言します。
慶喜は「わかった。大政奉還するよ」と、これをいったん了承します。春嶽や勝海舟たちに朝廷や長州藩との調整を依頼します。
春嶽は、朝廷にも長州にも、「諸侯を集めて新しい政治体制を作るから」と言ってまとめます。
しかしです、「わかった」と了承された大政奉還は、実行されません。春嶽は裏切られたと、激オコして福井に戻ってしまいます。
二回目については、「却下」ではなく「反故」にしたという感じでしょう。いずれにしろ慶喜は二回目の大政奉還を実行していません。
この第二次長州征伐の時期の慶喜の行動や発言は、クラクラするくらいメチャクチャです。
長州征伐をドタキャンして、後始末は勝海舟や春嶽に丸投げして、約束した大政奉還もテヘペロして反故にしてしまいます。そして、「お願いですから将軍になってください」と頼まれても、「いやだ」と、さんざん駄々をこねたくせに、ある日「やっぱり将軍やるから」と、将軍になります。
第二次長州征伐のころのケイキ君って、なんか混乱していますね。いったいどうしちゃったんですか?
あとから見ればそう見えるのかもしれないが、
ひとつひとつは私なりに考え抜いた決断だよ。
きっと、それぞれの場面で彼なりの理由があったのだと思いますが、出来事を追っていくと、慶喜ファンの私でも胸が苦しくなります。
まとめ 三度目の正直の大政奉還
話がいろいろそれましたが、大政奉還は慶喜の独自の案ではなく、かなり前から出ていました。言い出しっぺは、大久保一翁で、彼の勇気ある提言が起点となって、その線路が春嶽へと続き、秘かに坂本龍馬にもつながっていきます。
慶喜は大政奉還を決断する機会が三度あったことになります。
一回目は松平春嶽からです。慶喜は将軍後見職という立場から、これを却下します。
二回目も松平春嶽からで、慶喜はいったん了承しますが、反故にしています。大政奉還を自然消滅させた上で、慶喜は将軍に就任しています。なんかここモヤモヤしますので、あとで取り上げます。
1867年(慶応三年)10月3日、土佐藩の山内容堂が、後藤象二郎を通じて、大政奉還建白書を老中の板倉勝静に提出します。船中八策はフィクションですが、三度目の正直の大政奉還で、私は坂本龍馬の貢献度が相当大きかったと考えています。大政奉還が、後藤の提案とはちょっと思えないのですよね。
大久保一翁を起点とした線路が、坂本龍馬につながり、満を持して土佐藩から展開されます。
三度目の正直で、慶喜がこれを実行します。三度目の決断は電光石火です。
後藤象二郎の提言が10月3日で、大政奉還を宣言するのが10月13日です。国家の最重要案件を決めるには、いくらなんでも早すぎます。
この早さを見ると、「土佐藩の提言を受けて大政奉還を決断した」とする話は、疑いたくなります。
徳川慶喜は、二度退けた大政奉還を、なぜ三度目で実行に移したのでしょうか? しかもあんなに素早く? これが次の疑問です。
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