「ときどき世界的で普遍的なゲームは二つしかないような感覚に襲われる。戦争とサッカーだ」
ロバート・クーパー(小説家) ナショナルジオグラフィックス日本版 2006年6月号 ドイツの祭典
ワールドカップが最終段階になってきた。
国同士の戦いの緊張感は尋常でなくなり、一つ一つのゲームは迫力のある凄いものになっている。
でも、サッカーの質や美しさは、グループリーグよりも下がっているような気もする。選手が疲れてきたり、怪我や出場停止が増えた、ということもあるだろうが、戦いの真剣勝負が沸点に近づくと、サッカーの顔は、戦争に似てくるのかもしれない。
イングランド対ポルトガルの戦いを見て、特にその思いは高まった。
お世辞にも、この二つの国が展開するサッカーは、美しいと言えるようなしろものではなかった。むしろ、その対極にあった。それでも、ゲームからは少しも目が離せない。
「不思議だよな、普段こいつらは、互いにまったく違うサッカーしているものな」
僕はイングランドチームを見ながら、気がついた。
つまり、フランス人監督のアーセナル(アシュリー・コール)、ポルトガル人監督のチェルシー(ランパード、テリー、ジョーコール)、スペイン人監督のリバプール(クラウチ、ジェラード)、そしてスコットランド人監督のマンチェスターユナイテッド(ルーニー、ファーディナンド、ネビル)、バイエルンミュンヘンでプレイする選手もいる。
彼らは仕事場であるクラブチームで、まったく違う国のスタイルでサッカーをしている。
相手のポルトガルも事情はまったく同じだ、バルサの選手、チェルシーの選手、レアルの選手とポルトの選手が同じ国のユニフォームで戦っている。
そうやって見渡してみると、今大会で、外国人監督も実に多い。
イングランド対ポルトガルは、監督の国籍で言えば、スウェーデン対ブラジルだし、メキシコの監督が、実は対戦相手国のアルゼンチン人だったり、オーストラリアの監督がオランダ人だったり、もちろん、日本もそうだった。
「それはいいことだよな」
ジェラードが前線に向けて、イングランドらしいロングボールを蹴った。そのボールの弾道を見ながらそう僕は思っていた。
外国人監督のもとで代表チームを作りながら、でも、イングランドはイングランドのサッカーだし、ポルトガルはポルトガルのサッカーだ。
だから、日本のサッカーを追求するのに、日本人監督じゃないといけない、なんてことはまったくない。
むしろ、真実はきっと逆だろうと思う。
協会も監督も選手も、日本人だけが集まって、内側に向けば向くほど、僕らの国のサッカーはきっと曖昧になっていくに違いない。
日本人監督なら、きっと日本のサッカーを、外国の物まねサッカーにしてしまうはずだ。
一般的にも、会社や組織や国は、内側に向けば向くほど、活力を失い、形は曖昧になり、アイデンティティは薄れていく。
その逆に、例えば海外旅行をしたり、海外に暮らすと、否応無しに日本人である自分を強く意識する。
きっと人間は、外と混ざれば混ざるほど、自分たちの国を意識する気持ちが強くなっていくのだと思う。
だから「どんどん混ざれ」と僕は願う。
アジアもどんどん混ざっていけばいいと思う。
ホンミョンボがJリーグの監督になり、岡田が中国リーグの監督をやるようになればいいのだ。
代表監督も、ずっと外国の監督でいてほしいし、サッカー協会の幹部に、外国人がいてもいいと思う。
そのほうが、僕らはきっと「日本のサッカーとは何か」について、もっと真剣に考えることになるはずだ。
混ざれば混ざるほど、日本のサッカーの形が見えてきて、そして結果的に日本のサッカーは強くなっていく。
今年のドイツ・ワールドカップは、とても美しい祭典になっている。
それは、各国が自分たちの国の個性を全面に出して戦っているからだ。
世界のサッカーは、ヨーロッパを中心にどんどん国境を壊して、混ざり合っているのに、なぜ皆が同じサッカーになっていかないのだろう?
普段、混ざり合っているから余計に、一人一人が祖国のサッカーを強く意識することになったのだ。
ワールドカップが終わったあとも、世界と日本のサッカーが「ピース(平和)」な美しさで満ちて、これからもずっとずっと混ざり合っていくことを願っている。
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